たまには昔話をしてみたりして(その1:プログラミングと哲学の関係とか)。

最近、僕の哲学科時代の事を聞かれる機会がよくあるのですが、恐らく当時の哲学科学生時代の自分は相当浮いていただろうと思います。なにしろずっと寮に閉じこもってプログラミングをしているかバイクを飛ばして禅寺に出掛けてるかみたいな日常でしたので。

そもそも立命館の哲学科を目指した理由は極めてミーハーでして、その頃京都に仮寓していたデビッドボウイと逢いたい!と思ったからなのですね。実際、京都錦小路で買い物をしているボウイの姿が週刊誌にスクープされたりとかしていました。大島弓子のマンガに出てくる哲学科のオニーサンが非常に格好良かったという刷り込みもあったのですけど。

それはともかく、少し勉強しただけで「西洋哲学はニーチェで終わり」「その先にあるのは東洋哲学、東洋的合理主義にこそ可能性がある」「ライプニッツは易=タオイズムの論理学を普遍言語計画用のシステム言語へ応用しようとしたらしい」なんてことを妄想してプログラム開発に血眼になっていましたから。ちょっとぶっ飛んでいた気もします。なぜぶっ飛んだのかは良く分かりませんが。
とはいっても、実際にはマルチメディアピクチャーブックとかダンジョンロープレのコンストラクションキットなど一人でコツコツ開発していたので、今から考えると(80年代初頭ですから 8 bit 主流時代)目の付けどころは悪く無かった気もします。

とはいえ、本音を言いますと、広義の意味で哲学という学問は現在のインターネットビジネス開発に於いては非常に有効なのでは?と思っています。哲学の本質を「物事を本質的に捉え考える事」だとすれば。それこそ薄っぺらなマーケティング技術よりももっと役立つ部分があると思うからです。
特にグーグル的な方法論にはメタフィジカルな方法論の有効性を強く感じます。それこそグーグルは普遍言語計画の系譜として捉える事が可能だと思います。

日本の大学教育の弊かも知れないのですけど、哲学がただの文献学に落ち着いている限りではそういった面白味は出てこないと思うのですが、本来的には「目の前の対象を世界の構造的な成り立ちとセットで深く考える」メソッドが無効なはずはありません。そもそもヒルベルトゲーデルノイマンのラインはコンピュータそのものの誕生に直結しています(と考えると、ライプニッツ構想=普遍言語計画の機械化は約300年の年月を必要としたことになります)。

学生時代にはフッサール、ポンティ、ハイデッガーなどの現象学的アプローチが未完成であったことなどひどくがっかりした記憶があるのですけど、実はそのプロセスそのもの(テーマ設定とその理論化)が問題な訳ですから、考えてみると自分も若かったなあと思ったりします。

とにかく目の前の現象を疑って、その背景にある世界観の構造を言語化しようとするアプローチに惹かれた事と、当時コンピュータプログラミングを覚えた事はその後の自分の人生に大きな影響を与えましたし、その「視野、視界」はいまだに尾を引いています。
なんだか、どうしてもシステム言語的に物事を見る習慣が、読書だけでなくコーディングとデバッギングの繰り返しという日常によって強化されたと言いますか。

そして、その後、その世界観(と身体感覚)はマッキントッシュ上で動作するハイパーカードというプログラミング環境の登場によって決定的に自覚されることになります。
いまとなってはほとんど命脈の絶えたハイパーカードですが、そのハイパートークと呼ばれるビジュアル言語はカジュアルなオブジェクト指向言語として非常に洗練されており、それこそウェブブラウザーやウェブインターフェイス用のインタプリタ言語の先駆けであったとも言えると思います(先駆けであったことが知られるのは、その後のWWWとMosaicの成功以降の後付けなのですけど)。

自腹で買ったMacintosh PlusはHyperCard専用マシンと化し、当時新入社員だった自分はメインフレームの退廃的なエンジニアリング環境に辟易しながら深夜プログラミングにいそしみ続けていました。で、その習慣が行き過ぎて「街の中の事物、交通標識とかカンバンとかが何でもアイコンやソフトウェアボタンに見えてしまう」シンドロームに取り憑かれてしまいました。
言ってみれば拡張現実的な視野を自然に獲得した様なものです。ただ、これも記号論とかのポストモダン哲学にかぶれていた自分にとってはひどく当たり前の光景だった様な気もします。

考えてみればそれだけ当時の日本が消費文化的に成熟を遂げていたその熱狂も背景にあったのかも知れません。エレクトロニカな音楽を趣味で作ったりしながら(ときどき海外レーベルにデモテープを送ったりしてました)こつこつプログラミングしつつ、いったい自分に何ができるんだろうか?なんて考えていた20代なのですけど、今にしてもあんまりノリは変わっていないのではないかと思います。