たまには昔話をしてみたりして(その2:プログラミングと音楽の関係とか)。

いろいろ思い出しついでにライプニッツについて(ウィキペディアで)調べてみた。彼は普遍学としての論理学を5年程度で完成させる目論みだった様ですね。そして現実に完成されたのは300年後。それこそヒルベルトゲーデルの偉業を待つ迄の大いなる軌跡だった。

そもそも普遍言語の考え方そのものは啓蒙主義のシステム化だと言えるでしょう。それをタオイズムの陰陽=二進法ですべての「記号を演算する」システムで解決しようとした発想は卓越的というほか無く(そもそも二進数と論理演算を組み合わせて演算機械をなんとかするという発想に到達出来るのは凄いことだと思います)、現実にはチューリングノイマンの偉業を経ることで現代のコンピューティング+ネットワーキング、つまりデジタル革命の根源的なキー・アイデアになった方法論です。

要するにセカイカメラエアタグでセカイを可視化=外部化する試みとは、そのまま普遍言語の開発実装の線上にある試みに他ならないんですね。ということで我々はライプニッツの後継なのだとも言えます(というお話をこの間のパーティで鈴木健さんに差し上げていたのですが、意味不明でしたよね?ー>鈴木さん!)。

彼は多くの哲学者達との対話を求めて欧州中を旅しており、あのスピノザとも議論を重ねている。しかもプロテスタントカソリックの融和を本気で考える理想主義者だった。そういった性向にもすごく惹かれます。そして、百科全書派日本代表の南方熊楠ライプニッツの様になるよう大勉強する覚悟を日記に記しているらしいですね。

ライプニッツ好きをさらにさかのぼるとすれば、それは中国の古典に登場する「言葉を発明した男」のエピソードに行き着くと思います(言葉=究極的な記号交換体系の発生段階に戻ることはライプニッツの普遍言語計画の原点を考えることになると思うのです)。

神はそのとき彼に「多くを得るが多くを失う」と述べたそうなのですが、文明とはまさにそのような「理解と“超”理解、自然と“反”自然との間の」トレードオフの関係にあるのでしょう。だけど、それをどうしても発明せざるを得ないという業に何かイタタマレナイものを感じてしまうのです。 言葉という人工物は、本来そういったアンバランスな存在ではないかと思います。

で、たまたまそこからの連想ゲームで、自分の影響を受けた小説など思い起こしていると、「スミヤキストQの冒険」「ドグラマグラ」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の三作品に思い至ります(10代にハマっていた訳ですが)。すべては「脳と世界を描く」という難行にチャレンジした作品です。

「ハードボイルド・ワンダーランド」は、近未来と思われる世界で暗号を取り扱う「計算士」として活躍する「私」が、自らに仕掛けられた「装置」の謎を捜し求める物語である。半官半民の「計算士」の組織「システム」とそれに敵対する「記号士」組織「ファクトリー」は、暗号の作成と解読の技術を交互に塀立て競争の様に争っている。「計算士」である「私」は、暗号処理の中でも最高度の「シャフリング」を使いこなせる存在であるが、その「シャフリング」システムを用いた仕事の依頼をある老博士から受けたことによって、状況は一変する。(ウィキペディアより引用)

すべての作品に共通する「世界と自分との関係の曖昧さ」というのは、これも突き詰めるとタオイズムのエピソード「胡蝶の夢」にまで至るのではないでしょうか?森敦の「意味の変容」も、これと同源の作品だろうと感じます。
ライプニッツの計算機は論理演算装置として「普遍言語運動」のメカニズム化(自動化=オートマトン化)を志向するのですけど、それはそのまま易経のシステム体系の自動機械化(タオオートマトン)だと言えます。

「易」とは自然も人為も併せてエンコード&デコード可能なのだと言う世界観であって、これはもはや普遍言語以上に「セカイ=記号体系」という汎用的なアプローチだと言えそうです。そこでは、演算可能という点に於いて「脳と世界」は共にまるまる飲み込まれており、いわゆる拡張現実的な世界観が触れようとしている世界像の究極形だと言えます。

自己も他己も無い世界。しかも禅的な内省さえ不要な方法論。これは言語が生まれる前のありのままの世界を言語(システム言語)で取り扱おうとする再帰的な試みでしょうし、偶然性(チャンスオペレーション)を重視するという点では「音楽」的な方法論とも言えます。

そもそも音楽ってコンピュータと無茶苦茶相性がいい領域なのですけど、それを通じて世界を扱おうというアプローチはすでに陰を潜めて長いような気がします(ケージのチャンスオペレーションは有名ですね)。
学生時代に一時期チベット音楽を聴くのに無茶苦茶はまっていた時期があるんですけど、今から思えば「全体的な世界像を取り戻す運動」としての音楽というイメージがきっとあったんだろうなあと思い起こしたりします。

海外旅行の際に他の国の人の会話って「音楽」に聞こえますよね?本当は「発話=記号」のエンコード&デコードは、そもそもが音楽的行為だったのかも知れません。 音楽行為は、常に言葉の誕生時=記号化の働きへのカウンター(大いなる喪失への反逆行為)を秘めていると言うのは無理矢理な見立てでしょうか?

さて、音楽=プログラミングのお話に戻りますと、つまるところは何でもプログラミングの素材になり得るんだと思います。日本庭園にある見立てのイメージングもそうですしダンスのステップもそう。 あるいは都市計画とか公共交通網とかもそうですよね。そして、音楽は言うまでもなくそうです。ただ、日本ではイエローマジックオーケストラが人気を博す以前は、なかなかそういう捉え方はされていなかったようにも思います。

音楽がプログラミング可能であること、これはきっとファミコンYMO以降に成り立ったアイデアであって、それまでは楽器を弾けるとか音符を並べられるとかいう技術は決してプログラミング的なアイデアとして捉えられていなかった様に思います。ですから(音楽に限らず)あらゆる事象をプログラミングとして捉える考え方は割と最近のことで、なかなかそういうアイデアが理解される機会は無かったと思っています。

そういった意味では20代に松岡正剛さんとお会いできたのは、貴重な体験だったと思います。彼は当時物語をプログラミングするハイパーテキスト環境(ナラティブナビゲーター)を構想しており、僕はそのコアメンバーとして参画させてもらっていました。物語=脳構造をリプログラミング可能にしようというアプローチには無茶苦茶共感をしつつ、非常な知的刺激と興奮を感じていました。

だいたいそういうことを真面目にビジネスにしようとする人がいる事自体驚きでしたし、そういう話題を趣味じゃなく仕事として真っ向から語り合える相手がいる事が最高に幸せでした。まだ20代の生意気なエンジニアに過ぎなかった僕を引き上げて下さった事には未だに感謝をしています。

プロジェクト(オペラプロジェクトが正式名称)は残念ながら路半ばで頓挫してしまう訳ですが、そこで得た経験はその後も様々な影響を及ぼしています。


北京のセカイカメラ〜現実空間に様々な記号が埋め込まれてシェア可能になる。世界という書物を書くという行為をなんとなくイメージできませんか?