"Hello World"じゃなくって"Domo World"の意味。あるいはスケスケ社会の真面目な解説

"domo"はAR機能を拡張するOpenAPI(プロトコル群)として企画開発中ですが、そもそもこれをARと呼ぶ意図は「その場その時を共有している人や共通の関心(インタレストグラフ))を可視化する」機能としてデザインしているからです。

DOMO would be an unprecedented and important concept. "In the real world, it is a waste when people who are in the same time and place cannot get connected. That's what made us think of DOMO, as a front end people can use to share experiences and things in communication in a real-world space"
http://en.techwave.jp/archives/363509.html

"スケスケ社会"と言うのは僕自身の個人的な思い入れのある概念なのですが「その場その時の関心事や、関心事を通じて見えて来る人の存在」が可視化される社会って非常にスケスケな感じがしませんか?

スケスケと言うのは、ウェブの歴史的な流れを見ても、恐らく多くのイノベーター達が探求して来た大きな方向性とも多かれ少なかれ整合していると思っていて、「知識を気軽にシェアしたり、共通の関心事をオープンな関係性を通じて探求したり」といったオープンコラボレーション的な志向性にもマッチしていると思っています。

少しだけ話を拡げると、人と人の相互理解を支援して、コミュニケーションを円滑の進める際に"domo"的"nearby"コミュニケーション・プロトコルはとても有効ではないか?と考えています。
なぜなら、目の前にいる人がどういた関心を持ち(それが重なっているとより意識をシェアし易いですね)、どういった関係性で繋がっているのか?(通っていた学校、出身地、共通の業界関係者、住んでいた場所、よく出掛ける観光地、共通の知古)など多様なコネクションがあり得ますね)など簡単にシェア出来れば、どう考えてもコミュニケーション初動時点のステージが上がった状態での対話が可能になります。

ですから、"domo"のAR性とは「人の集合的な興味・関心やソーシャルな関係性が、リアルタイムに把握できる」そんなテクノロジーを開拓する .. といった意味でのAR性です。なので、その場合のARがもたらすであろう世界観は(これは自分流の言い方なのですが!)「スケスケ社会」なのです。

例えば、「なぜ自分は海外旅行中いきなり出会った人とフレンドリーに対話出来るのか?(これはよく人から驚かれます)」っていうことをよく考えます。自分的には非常に自然なのですが、人によってはとても奇異に映る様です。で、人類の歴史的には「自分の地縁血縁でコネクトできない奴は疑ってかかれ」あるいは「生活圏以外の人間には警戒せよ」などのスモールビレッジ的行動パターンが非常に長い間、人間行動を支配してきたのではないでしょうか?(明確に意識しなくてもマインドセットとしては未だに色濃く残っていると思います)

でも、現実にはいかに言語が通じなくても、あるいは背景とする文化的慣習が異なっても、その相手にも当然家族がおり、信頼する仲間があり、一定のコミュニティに於ける信用がある筈なのですね(親子や友人が居ない人間はいないでしょう)。ですからソーシャルネットワーク的な考え方を現実世界に投影していくことで、今までは相互理解が非常に困難だった人同士が、いきなり簡単に打ち解けられる様な世界が可能になるのでは?と感じています(ワクワクしませんか?)。

そういう視点で見た時に、スケスケ社会的な方向性は、ある側面では人類的な相互理解と相互扶助になんらか寄与できるのでは?と、期待をしています。

と言った感じで、いままで取材等でよく聴かれる「domo」「AR」「スケスケ」の関係性など、自分の言葉でなんとか説明してみました。