アップル成長の限界? よくある記事から垣間見える競争原理のパラダイムシフト

IBMによるSunの買収がほとんどニュースにさえなっていないというのも凄いですね。かつてジョブズ復帰前のApple買収の有力候補としてSunが隠然たる影響力を誇っていたことが嘘の様です。
そんなことを考えながら igulog の過去ログを眺めていたら、AppleとNINENDOの当時(2006年5月ですから、 Web2.0 の絶頂期ですね!)の様子を自分なりに書き記そうとしたエントリーを見つけたので再掲しますね。

恐らく、この頃のAppleiPhoneの開発追い込み期であり、同時にNINTENDOはWiiの開発追い込み期だった訳ですが、そういったイノベーションの根源にあるコア価値は実は非常にパーソナルな情熱とか想像力に掛かっているのでは?と思います。
そして、既にそれぞれは2010年に向けて新しい取り組みを実践している訳です。つまり、凡百の記者が考える現実の延長線にある競争環境よりも、現実の競争環境は常に未来への予見的なステージになってしまっている訳です(かつてはもっとインクリメンタルに想像可能だった時代があった)。

ARとかクラウドとかそういったテクノロジーのトレンドを単なるバズワードとして無感動にやり過ごすのはそういった新しい時代への姿勢としてはなんだか余りにアパシー的で駄目なのでは?と思うのですが、一方で半導体とかディスク装置など目に見える範囲での想像力でよかった時代ではない新しい想像力が問われている。そのことへのオープンマインドな姿勢は、本来SF的なコンテンツを空気のように吸収してきた日本人のもの凄く得意としたことだったのではないでしょうか?

2006年5月7日 「アップル成長の限界? よくある記事から垣間見える競争原理のパラダイムシフト」

ゴールデンウィーク突入後にCNETで掲載されたコラム「アップルを待ち受ける成長の限界」は、その記事の杜撰さ、記者自身の誤解・ミスリードなどによって多くのトラックバックを受けており、その結果、「話題性」という点では十分に効力のあった記事だと思う。

スリードから見えてくる新しい競争原理

個々の(記者による)誤読についてはそれぞれのコメントやTBを見ていただくとして、ともかくアップルについての記事はとにかく話題になる。

かつての「ワイアード日本版」でもジョブズのインタビューや当時死に体だったアップルを巡る記事は常に注目を浴びたし、音楽配信という限られたセクターに留まらずネット経済の今後を占う上ではiPodおよびiTMSについての評価や今後の見通しは避けて通れない。

ただ、この記事を読んで最も感じた違和感は、「そもそもプロセッサーの選択がそんなに大切なことなのか?」と、いう点だ。

かつてのPC黎明期に於いてはプロセッサーの選択はそのプラットフォームの将来を大きく左右する重大事だった。例えば80年代に於いてはインテル以外にも様々な敵対勢力があって、しかもアーキテクチャーそのものが大きく揺れ動きながら方向性を模索していたから(※ ニューロチップとか、並列処理エンジンとか、中には光コンピュータ、生体コンピュータなど、当時はまだ構想中だったトンデモアーキテクチャーも含めてですね)非常にホットだった。

しかし、それはもはや競争の重要項目ではない。なぜなら、インテルアーキテクチャーと全く異なるアーキテクチャーによって新しい市場を構築するためには、単純にプロセッサーを開発と生産するだけでなく、それをインストールして稼動すべきハードウェアおよびソフトウェアの生態系を構築する(あるいは寄生して生息する)必要があって、それは恐らく生半可なコストではないからだ。
たとえ自前で全てを賄わないとしてもプロセッサーの体系あるいはOSや基本アプリケーションも含めた情報処理体系を再構築するのは既に有力企業連合体をオーガナイズするだけでコントロールできるほど簡単ではなくなっている。

「あちら側の論理」のその先は?

また、コンピューティングのダウンサイズとネットワーク化のトレンドは、OSさえもその競争の主戦場から離脱させてしまった(90年代はまだ幾つかの選択肢があった)。
いわゆる「あちら側の情報圏」に様々な情報処理サービスが移行している今、搭載OSが何であるか?は、もはや余り意味を持たない。だから、オライリーの記者がPS3に搭載されるのが Linux であることを重要視していることについても正直違和感がある。

ネットスケープ台頭以降のインターネットブラウザー至上主義でさえもはや陳腐化しているのになぜいまさら「こちら側の」情報処理コア(ユーザーにとっては不可視)のOSに着目するのか理解しにくい。ただその一方で、グーグルに代表される「あちら側」なのだが、これも遠からず陳腐化されるレイヤーなのではないか?と感じる。

「あちら側」論議は、これは既に梅田望夫さんの「英語で読むITトレンド」のバックナンバーを読めば済んでしまう話で、「構造が理解できれば、後はそれを適用するだけ」的にフォローできる潮流なのでは?と、思う。しかも、大局観の無いディティールの詮索では、かえって時勢を見誤る可能性もある。ただ、問題はそういうことではなく、IT経済圏の歩みは既に次の段階に進んでいるのでは?と、いうことだ。

自分自身が特にそれを感じたのは携帯版のミクシーとニンテンドーDSWiFi環境を「どうぶつの森」を通じて体感したからだ。それはすごくシンプルだが深い体験だった。ただ、とても単純で分かりやすい環境ながらブログ圏の次の情報圏のビジョンを感じることが出来た。

「今そこにある未来」はどこにある?

PC黎明期にマックを触っていた頃、同僚のSEたちはそれを「玩具」だと思っていた。そもそもサンのUNIXワークステーションでさえ、せいぜいオフコン(もはや「死語」ですね!)のローコスト版程度の認識しかされていなかった。

そして、そのダウンサイズとネットワーク化は、ケータイと携帯ゲーム機に着実に訪れており、それは単に「よりコンパクトに、よりつながっていく」というリニアな変動だけでなく、

「その楽しみ方」
「その使われ方」
「満足感の在処」
「価値観の所在」
「経済圏=生態系」

が大きく変動しているのでは?と、思う。そしてそれはグーグルやSCEという従来のプレイヤーが思いもよらないところから巻き起こっている。いや、Wi-Fiを仕掛けているニンテンドーはSCEのライバルなのだから、これは知らないところから突然起こった流れではない。

が、「どうぶつの森」が指し示す未来像にどの程度彼らが気が付いているかというと疑問だ。相変わらずハードウェアスペックと実現できるゲームのスケールやスピードが関心対象になっているように見える。ニンテンドーのケースは、オールドカンパニーも思考の切り替え次第では幾らでもイノベートできるという実例かもしれない。そこにあるのはゲームというインターフェイスを通じた新しいコンピューティングなのだ。

また、ミクシー携帯版はほんの端緒だが、ソーシャルコンピューティングが携帯され大容量化していくその先を少しだけ感じさせてくれる。そこに移動する個人というアイデンティティがあること。それは今までユビイクタスと言われていた領域のコンピューティングが、ビジネスやサイエンスではなく日常的にしっかり根を下ろしつつあるリアリティがある。
そして、このことがもたらす産業の変化は余り意識をされていないのが現状だ。そして、「どうぶつの森」ではさらにそれが進んでゲーム的なメタファーの中に社会性と経済性が、とてもエレガントに組み込まれている。これも意外と目に見えない潮流の一部だと思っている。

ドラッガーの言う「今そこにある未来」がそこにはある。