子供と拡張現実的世界観

年末なので引き続き振り返りモードで....。2006年当時の自分のエントリーを読み返していて、今のセカイカメラに繋がる様なことを書いていたので、記憶の整理も兼ねて(多少、修正・編集して)採録しておきます。

日本のゲームに於ける“狭さの美学”といっても良いセンスはARの今後を考える上で役立つ側面なのかもしれないと思います。つまり実用性よりも、もっと感覚的な驚きとか発見の楽しさの部分にフォーカスする方向性ですね。

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■現実はすでにソーシャルブックマーク空間だ。

都市は(いや、田舎でさえ)、膨大なソーシャルブックマークの洪水なのだ。

マンホール、標識、ポスト、電柱、住所表記、コンビニ、消火栓、水道、ガス管、空調、ゴミ収集場所、学校、役所、公園、道路・・・・

たとえば、標識には公安委員会の管理番号が付番してあるし、ポストにしても地域ごとの番号がある。地下溝も公園施設も、それぞれがお互い絡み合いながら、有機的な情報網の一端を担っている。

あらゆる(ふだんは不可視なものが)インフラが縦横無尽にネットワークされていることは、それらを情報システムとして仮想のゲームのように簡単に読み替えることもできる。それらはまるでトーテムやアイコンのように無意識的に生活感覚の周辺に繋がっている。

赤瀬川原平さんがトマソンで“路上観察学”をスタートしたときと現在とでは、市外を空間的に把握する際の記号体系がもはや大きく変わっているのだと思う。

つまりインターネットが持っている空間認識、情報網のイメージが、すでに我々の都市認識にすっかり侵食をしているようだ。

本来はゲームデザインのためのトライアルとして(GRデジタルでの街角撮影を)やってみたのだけど、なんだか新しい視覚を得たような気がして面白かった。実はリコーGRデジタルの描写能力に負う部分もあるのだけど。

子供たちは、どういう風に自分たちの街を眺め感じ取っているんだろうか?ポケモンの空間認識とかが非常に微妙ながら彼らの心象風景に浸透しているような気もする。

■コドモ社会的共通プラットフォームとしての携帯ゲーム機

小学三年生の息子のソーシャルネットワークSNSではなく、実際のコミュニティ内活動)を観ていると、なかなか興味深い面がある。

少なくとも、ゲームボーイアドバンスあるいはニンテンドーDSは、彼らのコミュニケーション・ツールとしては欠かせない。

きっとその原点はポケモンなのだけど、そのコミュニケーション・ルートが無線化されWi-Fi化され、基本的な構造はそのまま、マップとモンスターを逐次追加しつつも彼らのポケモン探しの旅に終わりが訪れることはない。

(そして、その旅は、常にリアルワールドでのソーシャルネットワークと直結している。息子は中国滞在中にはポケモンをほとんど遊んでいなかった。

それはポケモンを電子的に共有できる仲間が周囲にいなかったからだ。その一方、上海往復の船旅ではポケモンは共通のプラットフォームとして大活躍をするのだ)。

ただ、ポケモンがダイアモンドとパールによって、“原理的には”ワールドワイドのWi-Fi網を手に入れたにもかかわらず、彼らの獲得している仮想空間世界の方は、驚くほどに狭い。

つまり、電子的に拡張されているゲームワールドの(原理上の)拡張に比べてプレイヤーとして子供が獲得している空間の認識規模はほとんど変わっていないのだ(ゲーム内マップが飛躍的に拡張しない限りは現実に拡がりようが無いと言えば、それまでの話ですが)。

■日本のゲーム空間の“狭さ”について

例えば「どうぶつの森」の場合もDS内に実装されているWi-Fi空間は(原理的には無限大に広いのですが)非常に狭くしつらえてある。ダッシュすればすぐに走破できてしまう狭さだ。

そして、その狭さ、そのまま手に取れるような箱庭感覚的なリアリティは、PC上のプラットフォームが概して、『グローバルに』、『汎世界的なデファクトを』求めて拡張し続けていく志向性とは異った“狭さの美学”や“小宇宙的な快楽”を志向しているかのように見える。

要するに、敢えて、前向きに、“チマチマ”している(アニメのおじゃる丸に“ちいさいものクラブ”という団体が登場するのですが、彼らはその“小ささ”を自己認識して誇っているのですね。これは非常にコドモの琴線に触れやすいメッセージだと思います)。

ポケモンの狭さも、同じように子供たちがリアルに感じ取れる遊空間の適正な広さというものを追求しているように感じる。

それをどの程度開発上の問題意識として捉えているのかはわからないのだけど、現実の子供的リアルワールド(に於ける空間認識)の範囲を超えないようなリミットの掛け方が絶妙に働いているのではないかと、寒空に膝突き合わせて図鑑完成に熱中している様子を眺めながら思った。

ポケモンのダイアモンドとパールに於ける空間演出

ポケモンはそもそも前作(ファイヤーレッド&リーフグリーン)から無線化されている。

で、通信交換時の演出も以前は通信ケーブルを伝わっている感じだったのが、DSでWiFi通信ができるようになった今は空を飛んでやってくる(交換なので、ポケモンを送り出す際には「飛んでいく」)という演出に切り替わっている。

で、息子と話しているととても面白いのだけども彼によればその演出は非常に中途半端なのだそうだ。つまり、実際には(物理的に)モンスターボールが飛びだしてくる訳ではないから、これは嘘だ!っていうのが彼の言い分なのだ。・・そういう話を、わりとマジメにしている。

ただ、さらに面白いなと思うのは「でも、本当にモンスターボールがDSから飛びだしてきたら、顔面に“がつーん”と当たって痛いよ。だから、よけられる体勢で交換しないと危険だよねぇ」とか、そういう話を真顔でしている。

実際、モンスターボールがDSから飛びだしてきて顔面を直撃するところをイメージするとかなりオカシイし、しかもそれをマジメに心配している話を聞くのも相当にオカシイ。

■そもそも物語空間のリアリティは現実空間とシームレスだったのでは?

でも、これはそういうやりとりを通じて日頃から感じることなのだけど現実と仮想の間の境界線はかなり曖昧になっていて、たとえば最近どういうことがあった?みたいな何気ない話の中にポケモンのなかの「○○ジムで○○バッチをゲットして、そのあと、○○○○島で伝説のポケモン○○○○を見つけた」なんていう話が自然にひもとかれる。

そして、それが「現実と仮想」、あるいは「本当と嘘」という区別で簡単に割り切れるのかというと、それは全くそんなことはない。

例えば、社会心理学的な論述内で、映画や文学内のエピソードを参照するような語り口(集団的無意識を取り出すような方法論だとは言え)についてはもうほとんど違和感・異質感はない。

それに、そもそも、物語的共感=共同体的幻想としての物語共有感は、本来そのようにバーチャル・リアルの間を交通していたんだと考えられる。

そして、今は、その空間感覚をそのまま視覚的に再現・体験できるようになったうえに、インターネットを通じて、実質的(体感的、体験的)に交通することができるようになってしまったということなのだろう。

これを一言で述べるのなら現実拡張感覚ということなのかも知れない。僕らが当たり前と思っている(=空間と感覚と情報の総体としての)世界観は確実に変化を遂げつつある。