汎用インターフェイスとしての英語

「日本語現地語論争」がアツいそうですね。頓智・の場合、内部の激しい反発を受けつつもホームページ、スライド、契約書など、ビジネスコミュニケーションはほぼ英語仕様に向かいつつあります。
それはもう単純に言ってコスト効率の問題で、翻訳をする事の時間的経費的なロスがものすごく大きい事がそもそもの課題でした。
バイラルにサービスを告知する。しかも市場の大半が英語圏iPhoneビジネスで日本語英語のコンバージョンをその都度やることのロスは非常に大きいですし、スカイプだろうがメールだろうが向こうは普通に英語な状態で通訳を立てる訳にも行きません。

ある意味、スタートアップのベンチャーがその限られたリソースでセカイに向かう際のやむを得ない選択のように思います。

上の論争とはまるで関係のない世知辛いお話のような気もするのですが、英語を汎用インターフェイスとして駆使する事が日本語文化を損なうという議論はどうなんでしょうか?
よく言われる事ですが日本語文化が大好きで非常に優れた研究成果を残している外国人研究者は多いです。たとえば弊社マーケティングディレクターを務めてくれているPeter Anshinなど、本当に古の折り目正しさとおもいやりを兼ね備えた日本人以上に日本人らしい存在だったりします。

どんどん英語圏に乗り出して自らの文化出自を問い直される様な方向の方が日本語ミームの将来を考えても有望なのでは?なんて思ったりします。

それにしてもネーティブアメリカ人の英語は酷いなあ!なんて思う事は西海岸に出かけたときに多いですね。それよりも香港、韓国、台湾の人たちの英語が非常に丁寧で正確だったりするのですがどうなんでしょうか?国語と国民を結びつける紐帯は確実に消失しつつあります。
あと、そもそも「国語」っていう概念が日本特有の独自なターミノロジーであることも議論を複雑化しているのでは?とにかく、こんなに複雑でニュアンス豊かな言語を自然に習得出来たのは非常にラッキーだとはいえ、英語を駆使する上で短期的には(相互の構造的な食い違いがあるために)ある種の重荷になっている面もあると思います。

個人的には、日本語ナショナリズム(仮称)はむしろ他の言語を知る事や使ってみる事で相当(視野が)広がって解除されていく可能性があるように思いますし、それは単純な二者択一でもないような気がするのです。

続報:梅田望夫さんの「はてブはバカが本当に多い」発言→炎上事件ですが、これははてブのリニューアルを控えたバズマーケティングの一環なのでしょうか?だとすると間違いなく大成功ですね。梅田さんグッジョブ!(正直、うらやましいです...投資対効果としては素晴らしい成果なのでは?と思います)

余談:国語論争って恐らく国民論争と切り離せないのですよね。で、国民というのは日本の場合明治政府の(死にものぐるいの)近代化政策によって発生したものですから、きっと戦争論とも切り離せない筈。そうすると、国語を文学視点から語るのは非常に狭い議論にならざるを得ないのではないでしょうか?国語からの離脱はもしかするとひどく長いスパンで言うと近代的な戦争装置としての国家からの離脱なのかもしれない。であれば、文学視線の国語擁護は、むしろ近代への逆走なのでは?なんてことを考えてしまいました。