Tagging the Future ! 近未来に向けてセカイカメラでタグを打つ

「テクノロジーとは生まれた時に無かった物すべてだ」というのはアランケイの有名な言葉ですが、この言葉に込められたオプティミスティックな確信を、僕は強く支持したいと思っています。
今日、無事終了したAR Commonsキックオフイベントでは、本当に無茶苦茶コンデンスされた議論が交わされました。そのなかでうまく語り切れなかったのですが「拡張現実のテクノロジーがもたらす幸福と災厄のそれぞれに我々は備えておくべきなのでは?」というのが自分なりのコモンズへの接点です。

たとえばグーグルストリートビュー問題のような事態がAR空間に起こってから慌てるのではなく、転ばぬ先の杖として議論のプラットフォームを自発的に獲得しておく事。そういった自律性や(プラットフォームとしての)オープン性が確保されていない場合、たとえば現実に「東のエデン」の様な事態に遭遇した際には圧倒的な社会的プレッシャーにせっかくの新しい技術の芽が摘まれてしまう可能性があります。そのような事態への対リスク装置を予め設けておくべきでは?というのが当初の問題意識なのです。
非常に身近な例にひもつけると、「ブログ炎上」などの問題に技術で応えられる(=アーキテクチャーとして対応できる)範囲というのは実は非常に限られています。

まず、今回のプレゼンスライドを作っていて思ったのですが、正直、快適なAR環境というのはテクノロジーによるホスピタリティ形成だけでは非常に限界があって、社会的な共通合意=双方向的な信頼のインフラが不可欠です。そして、そのようなインフラは牧歌的な性善説の採用だけでは恐らく構築できませんから、そのままではAR環境崩壊あるいは強権的なトップダウンによる管理を招くというあまりハッピーではない事態に陥ります。

そのような事態になる手前で本来インターネットが有していた自己解決的オプティミズム集合知的な暫時的解決方式)をうまく作動、活用できないものか?AR Commonsは始まったばかりでまだ本質的な影響力はありませんし、議論そのものもまだまだ生硬で主要な論点さえ明らかではありません。ただ、何事も最初はゼロベースな訳ですし、ゼロベースだからこそ出来る事もある訳ですね。

下は今日のプレゼンスクリプトです。はっきり言って、示唆的内容を述べられているとは全く思いませんが、せっかくですので公開しておきます。ひとまずはテクノロジードリブンで新しい体験性を提供する事が我々頓智・の主要フォーカスなのですが、その一方で社会学的観点による拡張現実空間の逆照射というスコープも同時に持ち合せているべきでは?と考え中です。

考えてみれば「電脳コイル」は、拡張現実が普遍的にインプリされた来るべき世界のシミュレーションとしては相当秀逸で、とてもよく考え抜かれていると改めて感心します。我々はそれをもっとリアルに掘り下げて思考実験をさらに積み上げて行ける筈なのです。


タギング・ザ・フューチャー、それは未来に向けてタグを打つという事です。まさに明日に向かって打て!ということですね。さて、我々のコミュニケーションの歴史、特にここ200年を振り返ると電話からインターネットという大きな変革がありました。電話をかける、からeメールを送る、そして今、エーアールを通じた技術革新は新しいコミュニケーションの次元をもたらそうとしています。

セカイカメラの目指す所は、インターネットの向こう側と、こちら側、現実の生活空間を繋ぎ合わせる所にあります。インターネットは向こう側に大きく開かれた世界です。世界中をいつでもどこでも繋ぎ合わせるという偉大なエポックを実現しました。
ところが、それは向こう側、仮想社会と我々の現実社会を、別々のものとして扱いがちな世界観でもありました。この豊かなフロンティアとしてのインターネットを現実社会にオーバーレイすることで、インターネットは生き生きとした生活情報空間に再構成できるのでは?と考えています。

さて、唐突ですが、街というものはまさに生きた存在だといえます。常に生き物のようにざわざわとざわめいています。突然電車が止まったり、いきなり雨が降り始めたり、偶然に人と出会ったり。いろんな出来事が起こります。エーアールはそういった生き物としての街との直接的なインターフェイスになると思います。

また、街というのは、生きて行く場としての暖かいスフィアでもあります。家族に限らず、その界隈の人たちとのコミュニティを可視化する。そういった働きをエーアールは可能にします。そのようなエーアールの働きかけは、初めて訪れた場所をまるで普段住んでいるかの様に感じさせてくれる筈です。
その場所がもっている機能や便利不便利、気候や風土、息づかいや機微を伝えてくれる事で、一見さんではなかなか得られない体験を得ることができます。

たとえば、僕自身の田舎、近所に前方後円墳があったり、鎌倉期の古仏があったり。そういうことを他人に伝えようと思ってもなかなか難しいのですがエーアールを使う事で簡単に伝達できます。エーアールのこういった働きは特に海外ではパワフルだと思います。通貨、作法、習慣、食事、社会的ルール、交通法規などあらゆる違いのある海外ではエーアールによる情報の強化は、とても役に立ちます。

ネットを通じてアクセス出来る情報であれば、たちどころにフィルターしてオーバーレイできますから、日本語メニューのあるレストラン、お気に入りのブランドを売っている商店、地下鉄のアクセス、タクシーの乗り方、電話の掛け方。様々なアシストをエーアールは可能にしてくれます。

さて、訪問先のミュージアム、これらはある意味現実世界の情報ポータルであり巨大なアーカイブです。その場所に出掛けて、そこにエーアールでアクセスする事で人類の叡智に直接触れることができます。その場に来るだけで、目の前にあるマスターピースを体感すると同時に、さらに世界中の知恵をミックスしてアクセスできるわけです。かつては存在しなかった、インタラクティブな美術館、書き込み可能な図書館、集合知を駆使出来る博物館。そんな存在がすぐに目の当たりになります。

そして、こういった空間の知織化、場所の情報化は、あらゆる瞬間に、あらゆる場所で繰り広げられることと思います。たとえば文化祭の記憶、こういった想い出深い記録が空間にひもつくことによって、その場所場所が時間的な記憶を獲得して行く訳です。

こういった働きかけは、ときに家族の記憶を空間化することで、より生き生きと、その瞬間瞬間を鮮やかに残してくれる事でしょう。何気ない言葉、何気ない感情、何気ない体験が、非常に貴重な記憶として家族の記憶になっていくのです。