モバイル世代にとってのソーシャルメディア観。新しいマスメディアのヒント。

昨日の続きで「個人情報のセキュリティ」について。つまり、個人情報とモバイルネットワークというと「漏洩の危険、悪用の懸念」というところへ直ぐに繋げて考えてしまうその前にちょっと考えたい事をメモしたいのです。
たとえばティーンエイジャーがソーシャルネットで非常にオープンなスタンスで情報共有している様子は、恐らくその書き込みが友人向けのメールやショートメッセージの延長系で考えられているからなのではないでしょうか?

少なくともモバイル上のソーシャルネットは実際にメールのインターフェイスを使うかどうかはともかく利用感覚としては友人コミュニティあるいは友人とのコミュニケーションのためにメール等でやりとりする利用感覚とほぼ同じ体験として広がっているように思います。そうすると、そこの先に相当規模のユーザーボリュームが有るという事実と、そうはいっても現実には日常的な交遊範囲に向けたメッセージとして投稿している体験的感覚の間には非常に大きなギャップがあります。

でも、 ソーシャルネットのヘビーユーザーならよく分かると思うのですが、個人間のネットワークは結局多少のジャンプでかなり広い範囲の人間関係までカバーできる(6度のジャンプで世界を網羅できると言われていますね)連続性、拡張性を持っています。

それに、そもそも僕らは日常的にもかなり広範囲な人たちと意識無意識に関わらず接触あるいはすれ違いだとしてもなんらかの接近遭遇を繰り返しています。たとえば旅行の際にはそのプロセスで「袖ふれあう仲」的なちょっとした面識を得たり、そこまで行かなくても声を掛け合ったり助け合ったりとかしています。

ですから、そこにいる顔の見えないその他大勢の人たちも要は「話せば分かる」、「どこかになんらかの共通項なり共感のある」人たちな訳です。

少なくとも、モバイル以前の世代に比べて個人的なネットワークデバイスとしての携帯電話経由で関係性を持つ事が空気のようになっている世代にとっては、ネット=見えない恐怖よりも日常的な交流の延長として自然に受け止められる乗り物になっている筈です(10歳の息子はDSで世界中のゲームユーザーと通信対戦することになんら違和感が有りません)。

そう考えると、モバイル上のソーシャルプラットフォームに対する向き合い方、そのなかでもパーソナルな情報を開示してある一定のクラスターを形成したりそこに参加したりする事へのハードルは非常に低いと思われます。

そういった意味でも、モバイル以前の世代が編集権の中心にいる旧来メディアにとってのメディア観(および情報セキュリティ意識)とモバイル世代のそれとの間にはもの凄い隔たりが有るように思います。

友達の友達はまた友達だ的な感性はもちろんいいことばかりではなく、一方で様々な潜在リスクをはらんでいると思います。ですが、その一歩で、創造的出会いの機会獲得とそこからの産業創出という点から考えても、モバイル世代ならではの面白さというのは今後発揮されるだろうと思います。